
文化芸術経営のイノベーションを目指して
大局観と座標軸をもとう
基調講演:近藤誠一 氏 国際ファッション専門大学学長 近藤文化・研究所代表 元文化庁長官
日時:2021年6月15日
皆様こんばんは。ヨーロッパの皆様は、こんにちは。ただいまご紹介を頂いた近藤誠一です。今日は、1時間半ほどお時間をいただいて、私の考えている文化と経済の繋ぎ方ということについてお話しをいたしますが、具体的なあるいは技術的、専門的な話というよりは、むしろ私の外交官としてそして文化庁長官としての経験に基づいた大局的なお話しをいたします。皆さんの活動にお役に立てればと思います。
コロナが長引いていることで、皆さんそれぞれがご苦労されていると思います。同時に、この異常な状態というのは、むしろ我々がこれまで道を考えあぐねてきたこと、忘れていたこと、忙しくてゆっくり考える暇がなかったことをじっくり考える機会であるとも言えると思います。後ほどお話しするように、人類の歴史を振り返ってみるとか、そういったことは普段はなかなかできませんが、こういう時だからこそ出来るとも言えると思います。例えば、日本では何かが起こると、文化芸術は不要不急かということが議論になります。そこで、危機に対して文化芸術がどのように対応してきたかについて世界の歴史を振り返ってみます。
例えば14世紀にペストが欧州で流行しました。その時に、ヨーロッパにいらっしゃる方も多いのでご存知かと思いますが、ジョヴァンニ・ボッカッチョの『デカメロン』という小説が書かれています。その内容というのは、フィレンツェに住む、経済的に豊かな男女10人が感染を逃れるために別荘で過ごすという物語です。10日間過ごすわけですが、10人が1日1つ話をする、したがって10日間で100の話ができるわけですね。それが文化史上、画期的な役割を果たしたと言われています。それが、散文で書かれた小説であったからです。それまでは韻文だったわけですね。これによって小説が庶民に広く広まるようになった。つまり、危機を利用して、新たな芸術の形を生み出したということです。
もう一つは美術の世界でも言えることです。それまでは美の表現は大きな壁画などが主流で、動かすことが出来ないもの、例えば建築物などの不動産に大きな芸術性を込めてきた。しかし、そういう場には皆が集まれなくなってしまいました。ペスト感染防止のためです。そうなると、家の中で芸術を楽しみたい、ペストから逃れる時に自分たちで持っていける芸術作品がほしいという、ポータブルな動産的な芸術への需要が高まり、アーティストはそれに応じて、絵画や壺といった作品をつくりました。それもある意味で、ペストという大災難を迎えて、それにアーティストが答える形で、新たな芸術形態を作ったということが言えるわけです。
本日は演劇の方が多いそうですので、もう一つだけ。もともと演劇と言えばギリシャ悲劇が最もオーソドックスな演劇でした。それを超えるものがなかなか出なかった。しかし、16世紀になって、シェイクスピアという人が新しい演劇を作り上げました。ちょうどその頃、ロンドンはペストが大流行し、劇場も一年半近く閉鎖になったと言います。そういう中でシェイクスピアは何をしたと思うでしょうか。ペストをテーマにした戯曲を書いたわけではありません。彼のどの作品をみてもペストらしいものは出てこないですね。彼が気づいたのは、ペストという疫病は、身分、性別、出身、職業を問わず、誰にでも感染する、人は皆もともと平等だ、ということです。ギリシャ神話では、人の運命は神様が全部決めている、それに一生懸命抵抗しようとしたけれど、結局最後は運命から逃れられていないことに気づく、というのがギリシャ悲劇です。しかしシェイクスピアは、いや、一人一人の運命は、予め決まっているわけではなく、一人一人が自分で作る、それによって悲劇も生まれれば喜劇も生まれる、そういう思想で戯曲を書いたわけです。つまり、個人は自由に幸せを求めるものだという前提がそこにはあります。したがって、同じ職業の人々でも、全然違った個性を持つ人物像が登場人物として描かれていることが特徴です。
そんな話もありますので、芸術というのは掴みどころがないようですが、もの凄い力を持っている。ペストという感染症を乗り越える力、むしろ苦難に立ち向かってこそ、底力が発揮される面があるのではないかと思います。今回のコロナも、そういう影響が芸術に生じること、皆さんの活動に、それぞれが反映されることを願っています。
少し前置きが長くなりましたけれども、パワーポイントを用意しましたので、それに沿って進めていきたいと思います。

今文明の中心になっている経済において、文化は中心に置かれていない、その結果、文化が持っている本来の力が発揮できていません。
今日お話することは、先程泉志谷君が言ったようなことですが、現代社会において文化芸術はどういう位置にあるのかということです。まず、現状をどう見るかにあたっては、少し大げさかもしれませんが、宇宙や地球が出来たところから歴史を振り返っていきたいと思います。そして、人間が文明というものを作ってきた歴史の中に、今現在の文化芸術というものを位置づける、ということが、最初のポイントとなります。
歴史の中で様々な問題が生まれました。その一つが、文化芸術を正しく扱っていない、ということです。なぜそうなってしまったのか、ということを、二番目にお話したいと思います。
そして最後に、もう一度人類の歴史に振り返ってみて、何か解決の取っ掛かりがないかということを探索し、まだ多くの現代の人々が気づいていないけれども、文化芸術には現代の問題に取り組むに当たって素晴らしい力がある、それを是非生かしていきたい、そういう流れでお話をしたいと思います。
まずは、これは皆さんが感じられていることでもあり、釈迦に説法でしょう。社会においては、文化芸術の力が、十分に認知されていません。したがって、今文明の中心になっている経済において、文化は中心に置かれていない、その結果、文化が持っている本来の力が発揮できていません。では、どうしたら良いのでしょうか。
私は、文化庁長官を三年間やっていました。その時も、そして今もですが、文化庁予算というのは、1,000億を少し超えたところでほとんど横ばいになっています。財務省に行き、文化は大事です、文化の予算は今のままではとても足りません、フランスに比べれば文化の予算は政府の支出に対する比率は10分の1です、そう言ってもっと増やすように働きかけると、財務省の方たちは「確かに文化は大事です。では、もしいま文化予算を100億円増やしたとしたら、来年どんないいことがありますか。GDPを押し上げる効果がありますか。人々が幸せになりますか、そしてそれは数字になりますか」と言われる。そもそも文化芸術の効用というのは数字になりにくいものです。そして、効果が現れるとしても10年、20年先で、しかも、因果関係が見えにくい。具体的にこの予算をつけたからこれが出来たということは明示できない、と言わざるを得ない。議論上での弱さが文化芸術にはあります。

文化芸術と経済、それぞれ大事な人間の活動分野。それぞれの本質はどこにあるのか、どこは変えてもいいし、どこは変えてはいけないのかを考える必要がある。
そこで、色々と考え「文化のもつ7つの力」というものをつくりました。1つめは、感動や悩み、祈り、感謝の念を表現して、共有すること。そして2つめは、生きる力と幸福を与えること。そして3つめは、文化自体がコミュニケーションのツールになることです。文化を通じたコミュニケーションがとれるということです。4つめは、もちろん経済効果があること。観光がその典型です。当時は、クールジャパンというアピールが始まった頃でした。5つめは、ナショナルブランドとして、あるいはソフトパワーとして外交のツールになることです。6つめは、人間はどうしてもうまくいくと固定観念にとらわれてしまいますので、それに対して文化芸術は、そういった殻を破ることにも役立ちます。これは企業のイノベーションにもつながるということです。最後の7つめは、日本人がずっと長い間育んできた、知恵や思想、価値観です。そういったものが、伝統文化、伝統工芸といった、有形無形の文化財が体現しています。我々はそれらの文化を通じ、思想や価値観を短期間で吸収することが出来る。文化財はいわば、先人たちが残してくれた宝の箱です。当時は、そういったことを並べ説得を試みましたが、なかなか予算を2倍にする、というところには至りませんでした。ですが、最近、また新しい文化芸術についての発想が出てきていますので、それをゆっくりとご紹介していきたいと思います。
なお、今日のお話は「これをやれば良い」という明確な答えがあるわけではありません。あればとっくにそれを実行しています。しかし、そういうことを目指している泉志谷君や、CILの皆さんが、答えに向かう道筋の中で、何か材料になるものが提供できればという気持ちで、今日は材料を提供します。最後の料理は皆さんがつくってください。
まず、そういう「解」を見つけるためには、文化芸術と経済、それぞれ大事な人間の活動分野ですけれども、それぞれの本質はどこにあるのか、どこは変えてもいいし、どこは変えてはいけないのか、ということをまずはしっかりと考えなければいけません。単に文化芸術と経済の融合といって、ごちゃ混ぜにしても意味がないと思います。昨日たまたまある講演を聞いていて、ラインホールド・ニーバーというアメリカの宗教学者の言ったことを聞き、紹介しようと思ってここに引用しました。全く同じことですね。
『神よ、変えることの出来ない事柄については、それをそのまま受け入れる平静さを、変えることの出来る事柄については、それを変える勇気を、そしてこの二つの違いを見定める叡智を、私にお与えください』(ラインホールド・ニーバー)
特に、最後の『二つの違いを見定める叡智』それはどうしたら得られるのでしょうか。もしかしたら永遠の課題かもしれませんが、そういった問題意識を持つことが大切です。そのためには、目の前のことだけではなく、人間とはそもそも何なのか、どういう歴史を歩んで来たのか、経済を生んだ文明とはそもそも何なのかということを、巨視的、歴史的に、見なければなりません。同時に、その流れの中で、今ここにいる自分はなにを基準にその問題に立ち向かうのかという、自己の、拠って立つ基盤を持って頂かなければいけないだろうと思っています。
大局観とは、時間、空間、分野を越えて事象を俯瞰するということです。生命や人類について、専門の枠を越えて全体を考えていくということがまず必要です。それによって、現代を分析して未来を自分でつくっていくということです。
座標軸というのは、こうした流れを見据え、自分を位置づける、設定するものだと言えます。大きな流れ、例えば鳴門の渦潮のようなものに巻き込まれているだけでは、課題を解決することは出来ません。今自分はどちらを向いているのか、常に、どちらが陸なのかを把握し、いかにうまく立ち回れるか、ということを考えることが大切です。そういう行動指針を持たなければいけないという、お話をしたいと思います。
大局観と座標軸の双方を持つと、どういう良いことがあるかと言いますと、固定観念を取り払うことができる力になります。人間は一度成功すると、そのやり方で良いと考え、固定観念が生まれてしまいます。そうすると、変えても良いもの、変えてはならないものの判断を誤ってしまうことがあります。そこで、大局観を持ち、大きな流れの中で、何を変えたほうが良いのか、悪いのかの判断がつくようにする必要があります。

ここにいくつかの固定観念になり得るものを紹介しましょう。まず、未来は、過去から現在までの流れの延長であるという考え方。人類には普遍的な価値というものがあるという考え方、欧米風の普遍主義ですね。社会は、普遍的な善という目標にむかって進歩する考え方、これを進歩史観と言い、西洋、キリスト教社会に根付く発想ですね。それから資本主義というものは、経済は成長を続けることで豊かさが増し、進歩をしていく、将来の目標に不可欠な力を持っているのだという考え方です。企業で言えば、自由競争の下で最大利益を目指すことが進歩に役立つという、アダム・スミスのような考え方もあります。そして、西欧中心史観、西欧の文明は、人類が収斂していくゴールだという考え方。それから、科学技術は万能であるという考え方、科学技術はどんな問題であれいずれ解決してくれる、だから科学技術をしっかりとやっていれば良いのだということです。そういったことに対して、当たり前だと思うところもあると思いますが、本当にそうだろうか、と考え直していくことが必要なのではないかと思います。
では、これから大局観の例をご紹介したいと思います。ここでは、宇宙と地球の歴史、特に生命とは何なのかということについて振り返りたいと思います。次に人間とは何か、人間が作り始めた文明というものはそもそも何なのか、ということをお話していきます。

あらゆる秩序は必ず崩れる、乱雑になっていく、もとには戻らない。
これが地球ですね、美しい星です。138億年前に宇宙が出来、「ビッグバン」というものがおきました。46億年前に地球が生まれ、38億年前に生命というものが誕生した。この生命というものは、まだほとんどわかってはいませんけれども、知れば知るほど不思議なものです。特に生態系、最近言われ始めている「動的平衡」、そして日本人の大隅良典先生という方が発見しノーベル賞をとられた「オートファジー」細胞の自食作用……そういった様々な作用が合わさって、生命というものが38億年間この地球上で生きてきたということですね。
順番に言うと、まずはビッグバンです。宇宙は高温高密度の状態から始まり、大きく膨張することによって、低音低密度になっていく。これが無限に続いていくわけです。そこで生まれたのが、エントロピー増大の法則というものです。聞かれたことがあると思いますが、あらゆる秩序は必ず崩れる、乱雑になっていく、もとには戻らないという大原則ですね。例えば、お湯と水を混ぜるとぬるま湯になります。しかし、それがまたお湯と水に戻ることはない。海岸で砂山をつくっても次第に崩れていって元には戻らない。宇宙はそういった大きな法則に支配されている。これには誰も抵抗できません。
他方、生命というのは、そういった物理現象の中で、色々と工夫をして、38億年間つないできたわけです。具体的には、無機物を植物が太陽光を使った光合成によって、有機物と化学エネルギーに換え、酸素を出すという大変重要な役割を果たしていく。タンパク質やエネルギーを草食動物が食べ、それを肉食動物が食べ、そして、そのタンパク質が次々に移動をして、最後排泄物や遺体となって、地面に戻っていく。その有機物を無機物に変えるのが微生物ですね。そうして、無機物はまた地中にもどって、再び植物による光合成の生産要素となる。化学エネルギーも同様です。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。」ということであり、生命体とは一瞬の淀みであり、実態のある個体ではない。
漫画をつくってみました。ここに無機物があります。例えば炭素。それを植物がCO2と太陽の光エネルギーとを一緒にし、光合成を行い、有機物タンパク質、化学エネルギーをつくり、酸素を出しますね。そして、草食動物は酸素を吸い、タンパク質を食べ、化学エネルギーを吸収して、子供をつくる。ライオンが来たらもちろん逃げます。その時化学エネルギーを発散する。ライオンは肉食動物ですから草食動物のシマウマを食べる。食べることでタンパク質と化学エネルギーを得て、もちろん酸素も吸い、それによって子孫を残します。そして死んでしまうと、今度はそれを細菌が分解して、無機物になる。そういうことで、同じ量の無機物が、ぐるぐると循環することによって、生命が維持されています。大変不思議なメカニズムですよね。
もう一つ面白いのが動的平衡というものですね。先程エントロピーの増大という話をしました。エントロピーのルールのもとでは、物事はどんどん崩れ、もとに戻りません。我々は老廃物を出します。時が経ち、歳をとれば高分子は酸化する。タンパク質が変性する。油断していると、すぐに秩序は崩壊してしまいます。それはすなわち、生命体の死を意味しますが、それに抵抗するために、常に自分を壊し、新しくしていかなければなりません。自分自身をフレッシュに保つために、エントロピーが低い状態をできるだけ伸ばしていく。エントロピーが高まってしまったら排泄物としてどんどんと外に出す。そして新しい食事や酸素によって、低いエントロピーの状態を維持していく。そういったことも個体は永久に出来るわけではなく、最後は死んでしまうわけですが、自分が死んだとしてもその間に子孫を残すので、種というのは保存されます。個体は死んでしまい、エントロピーに負けるけれど、種としはエントロピーに抵抗して生命を持ち続けるということです。神様が作られたのかどうか知りませんが、大変に素晴らしい仕組みです。
とても簡単に言うとこういうことです。毎日食事によって、タンパク質など、新しいものを取り入れます。それは身体の中にたまりますが、いつまでも溜めてはおけない。古くなったものはどんどん捨てる必要があります。つまり、排泄物として、汗として。皮膚が剥がれてどんどん落ちていくのもそうですね。そうすることによって、個体というのは、固定しているのではなく、常に流れていると言えます。常に新しいものが入り、古いものが出ていっている。つまり「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。」ということであり、生命体とは一瞬の淀みであり、実態のある個体ではない。流れの中の一時的なたまり場だと言うわけです。そういうことによって、生命は個体を維持しているという、不思議なことです。
もう一つはオートファジー、つまり自食作用というものです。こちらも非常に面白いものでして、簡単に言えば、生命体の細胞は、細胞の中にある自身の細胞質成分というものを食べて分解して、アミノ酸を得る、というものです。

新たな環境に適するものが残る。それはいわば進化であり、生命の継続。
これは細胞ですね。液胞と細胞質成分というものがあります。しかし、最近までなぜ液胞があるのか、細胞質成分がなぜあるのかわかりませんでした。細胞にとって必ずしも必要なものではないらしいんです。ところが大隅先生が発見したのは、この液胞が、細胞質を食べるということでした。自分のタンパク質を食べ、アミノ酸に分解する。古くなってエントロピーが高まった細胞のタンパク質は、自分で食べ、エントロピーの低いものにして、もう一回使うということですね。誰が考えたかわかりませんが、そこまでして、生命は自分を維持してきたということです。
今申し上げた動的平衡、つまり個体とは一時的なとどまりにすぎないということと、古くなったものは捨てるだけじゃない、自分で食べて新しくする、そういう素晴らしい作用によって、エントロピーの増大に抵抗し、個体、そして種の生命を、維持してきたということですね。それから、生態系という食物連鎖、シマウマをライオンが食べる云々、そうすることによって有限の物質が、無限に循環をして生命を維持しています。この食物連鎖というのは大変重要です。
更にその循環の担い手が絶えないようにする必要性があります。色々な環境変化が起こるわけですから、単純なサイクルの方式では、種が駄目になってしまうかもしれない。そこで、多様性が大切になってきます。いろんな種類の動物、植物、昆虫、細菌がいるからこそ、環境変化でどれかが駄目になったとしても、他の種が生き抜いてくれるわけです。それは個体においてもそうだし、動物としてもそうです。数限りなく違うものがある、おまけに、突然変異で変わったりもする。それによって、新たな環境に適するものが生き残っていきます。それはいわば進化であり、生命の継続ですね。
コロナウイルスも同様です。どんどん変異種が出てきています。ワクチンが出来ても、治療薬ができても、それをかいくぐっていけるものが繁殖していく。つまり、ウイルスの多様性があるからこそ、しぶとく、我々を苦しめていると言えます。
そういった、人間がなかなか考えつかないようなメカニズムで、38億年間バランスを維持してきたのです。例えば、ライオンがシマウマを食べ尽くしてしまうと、餌がなくなって自分が滅んでしまいますね。だから、ライオンは、シマウマを食べ尽くさない程度に食べる分を調節しています。シマウマも同様に、草を食べ尽くすと生きていけなくなるので、草が元に戻ってくれるぐらいの量に留めている。ライオンも、シマウマも、植物も、捕食者と被食者の関係にあるけれども、そういった調整することで、バランスや生態系の循環を保ってきています。考えてそうしているというよりは、人口調整ができる種族が残ってきたのかもしれませんね。
今日は、ドイツの方もいらっしゃいますね。『ハーメルンの笛吹』という小説があります。その元となったのが、レミングとかいうネズミです。何年か一度に大繁殖をする。そうすると不思議なことに、突然集団で海に向かって突進して、沢山のネズミが集団自殺をすると言われています。それによって人口調整をしているのです。だから、ネズミの餌はなくならない。ネズミを食べる猫たちのバランスもとれているということです。これは単なる言い伝えで科学的に証明されていないそうですが、そういう話があるということだけ申し上げておきます。いずれにしても、そのような知恵が、色んなところにある……知恵といっていいのかわかりませんが、我々からみえれば知恵のようなものがあるからこそ生命は保たれてきた。そのことを、我々は社会を運営するときに、しっかりと理解しておかなければいけない。ということです。
ところが、人間が文明を発達させることによって、この素晴らしいバランスのとれた自然を、どんどん壊してしいました。例えば、森林破壊。エネルギーをとるためにどんどん木を切って燃やしました。そして、居住地をつくるために、平野をつくるために、畑をつくるために森林を破壊した。その結果、植物の数が減れば光合成ができない、CO2が吸収できなくなるから温暖化になる。野生動物が追い出されて絶滅をする。そうなればさきほどの物質循環、食物連鎖というものに影響を与えるし、野生動物は畑とか人里に出てきて感染症を拡大してしまうことに繋がります。
それから、農業革命が起こりました。人工的な食糧増産によって、人口が急激に増大した。ライオンは増大しすぎたら、シマウマを食べ尽くして、自分も駄目になります。しかし、人間は食糧を増産したため、人口が増えても一応は生きていける。それによって、みるみる人口が増え、都市化が進み、更には、自分が美味しいと思う野生動物を捕まえ、家畜にしました。したがって、そうでない野生動物はどんどん滅びていくことになりました。家畜になりそこなった狼も絶滅してしまいましたね。今、地球上にいる哺乳類の9割以上が家畜だそうです。食物連鎖や多様性に大変なダメージを起こすとともに、家畜から感染症も広がります。家畜自身も「三密」の中でインフルエンザに襲われ、「殺処分」にされます。
そして、技術革新により、大量生産、大量消費が始まりました。プラスチックは、分解して土に戻すことが出来ない、つまり物質循環を妨げてしまいます。人間はそういったことを、どんどんやってしまっています。最近はやっと反プラスチック、反ビニール運動が始まりましたが、とても追いつかないほどの大量廃棄が行われています。エネルギーの大量消費も問題です。石炭、石油を大量に燃やし、CO2が出て、温暖化になる。人間は、本当にろくなことをしてない、そう言わざるを得ません。

制度は完璧で美しい。しかし、それを運用する人間が不完全。
これが先程の循環ですが、ここに人間が出てきました。何をしたかというと、森林破壊、農業・牧畜革命、大量工業生産、エネルギー消費……したがって、光合成もCO2の吸収も、酸素を出すのも、そして物質循環や食物連鎖もその機能が低下し、野生動物も、どんどん滅びてしまいます。あげくの果てに、地中にある炭素を、石油を燃やすことによって外に出し、それが、空にいって、温暖化になってしまいます。家畜も増えて、感染症の媒体に。本当にまぁひどいことを、人類はやってきたと言わざるを得ないですね。もちろん、それらは、事前にわからなかったわけではありません。ここにあるような有名な書物は警告を発してきました。例えば、レイチェル・カーソン『沈黙の春』やローマクラブ『成長の限界』、ヨハン・ロックストローム等の『プラネタリーバウンダリー』です。さらに、多様性に関する条約、京都議定書、MDGs、最近のSDGs、等々ですね。そういった、何とかしようという動きはあったけれども、自然破壊は止まっていません。
それはなぜか。やはり最後は、経済成長しなければならないとの思い込みがあるからです。成長しなければ、進歩主義や普遍主義という理念を実現できない。脱成長なんてありえないという思い込みがあります。同様に、科学技術はいずれ問題を解決してくれる。気候変動も、感染症も、最後は科学がやっつけてくれるという希望的な観測もあるでしょう。
最近、環境問題についての意識が高まり、科学技術を用いて何かしなければならないという流れが始まりました。しかし本格的な解決策ではなく、わかりやすく、かつ経済のシステムにうまく乗ることだけやるという傾向があるように思います。最近の脱炭素のブームはその一例です。脱炭素をやらない企業はもう生きていけないと言いますが、本当に脱炭素だけでいいのだろうかと考える必要があります。例えば、ガソリン車をやめ、EVに変えるということ。あたかもそれで全てが解決するように思われていますが、実はEVをつくるには、たくさんの銅が必要です。それからリチウム電池。リチウムは希少資源です。リチウムは、中国等、ごく一部にしかありません。そうすると、そういった必要資源を確保するために、開発途上国での児童労働などが発生してしまうことがあります。銅はアフリカ、コンゴ等にありますが、そこでまた先進国の企業が行って、銅が必要だと言って、低賃金で働かせてしまう。それによって、貧困が続くし、むしろ先進国による収奪は増してしまいます。更に、銅からEVをつくるにあたっては、工場で大変な量の二酸化炭素を出してしまいます。そういったことは計算されず、ガソリン車が出す排気ガスだけを計算して、それがなくなれば良いと考えられています。
一見良いように見えて、実はEVをつくる過程でたくさんCO2を出してしまいます。加えて、実際は途上国に負担がかかりや森林も破壊することに繋がる。そういうことに目をつぶって、脱炭素ですべて解決する、形だけやっているという競争になってしまった。結局は、その場しのぎで終わってしまうのではないかと危惧しています。金融危機も似たようなものですし、戦争もやめようと何度言われたかわかりません。いろいろな制度はつくりました。しかし全然終わっていませんね。これは結局人間の浅はかさであると言わざるを得ません。わかってはいるけれども、根本的には何も出来ていない。
では、何故そのようなことになってしまうのか。その一番奥にあるのは欲望です。オリンピックの標語にもありますが「より速く、より高く、より強く」これは良い言葉でしょうが、例えば、100万円貯まったけれど、一部の人間はそれで満足しなくなっていますね。じゃあ、これを投資して200万にしよう、500万にしようと考えます。新幹線、すごく速い、けれども、リニアはもっと速いよ、ということも同じです。満足しない。先程、ライオンの話をしましたが、ライオンっていうのはお腹がいっぱいのときは、シマウマがそばを通っても見向きもしません。お腹が減ってくるとシマウマを襲って食べます。人間はどうでしょう。お腹がいっぱいのときにおいしいものが出てきたら見向きもしないでしょうか。人間は食べられなくともとりあえずとっておき、冷凍保存するということが出来ますね。そうすることにより「足るを知る」ということを人間はどんどんと忘れ、よりおいしいものをよりたくさん求め、将来のためにそれを貯める、そういう風になってきています。
欲望については、ライオンのほうが遥かに人間よりえらいですね。ちゃんと、足るを知る。自分が生きていく、子孫を残していけばそれで良い、それ以上のものは望まない。しかし、人間はそれ以上を望んでしまいます。それ以上を望んで、それが実現する技術がなまじあるから、ますますそうなりますね。
欲望に加えてもう一つ、人間の性は、思い上がりです。科学技術があれば何でも解決できると考えてしまいます。人間は、せっかく、経済や資本主義経済という素晴らしい文明、科学技術を培ってきました。民主主義もそうだし、資本主義もそうですが、文明というものは制度であり、しかも、とても立派です。完璧で美しい。しかし、それを運用する人間が不完全ということですね。車と似たところがあって、ベンツであれ、レクサスであれ、その技術は素晴らしいし、事故が起きないように精密設計されて作られています。しかし、そのメカを知らず、酔っ払って運転すれば、それは事故を起こしてしまいますね。文明という素晴らしいシステムをつくったはいいけど、ちゃんとそれを運用できてない。人間というのは不完全であり、そういう浅はかさがあるんだということです。以上が、自然における生命、生態系の発達とそれに対する人間の負の行為の概観です。

宇宙に出てふっと地球の方を振り返り、はっと気がつくことがある。地球には国境はない。
もうひとつ、人間自身の社会の話をしてみましょう。人間、つまりホモサピエンスが生まれたのが20万年前だと言われていますね。大元はおそらく700万年前くらいに、アフリカのエチオピア南部に生まれたようで、そこで発見された女性の人骨(たしかルーシーと名付けられた)が人類共通のお母さんだと言われていますね。アフリカに生まれた類人猿が、だんだん世界中に広がっていったと言われています。北京原人やジャワ原人もいましたが、そういう原人はみんな滅び、最終的にはアフリカの類人猿が世界に広がって、やがてホモサピエンスになったというのが今の定説のようです。その間に道具を使うことを覚え、火を覚え、先に言ったような、認知革命、農業革命、産業革命、科学技術革命、情報革命と、もう加速度的に数百年の間にものすごい進歩を遂げてきました。
認知能力というのは、知覚、思考、言語能力などのことで、これによって、自然の中にあるルールを見つけ出しました。万有引力の法則とか、そういったものの発見です。同時に、それから抽象的な概念をつくり出しました。真理というもの、秩序とか市場とか正義とかで、こういうものは自然界に物理的には存在しません。これらは、人間が勝手に考えだし、言語化したものですね。それをさらに人間の活動に当てはめて人文科学、社会科学、哲学、文学、政治学、経済学として発達させた。これは『サピエンス全史』を書いた、ユヴァル・ノア・ハラリの言葉ですが、彼はこれらのことを「虚構」であり「共同幻想」だと言っています。このように抽象理念を制度化して、国家というものをつくり、マーケットというものをつくった。そして、権力機構や法律をつくり、統治をする。国境をつくる。更に、それらの最も素晴らしい運営方法は、民主主義だということを考えだした。経済面でも、ものを生産するだけではなく、交換することで新しい価値が生まれる、より価値が高いところに持っていき、高く売れば利益が生まれる。その利益でまた新しいものをつくり、それを作れないところに輸出することで金を儲ける。そういった交換経済、それを司る貨幣、そのお金を供給する金融。資本主義の中で、そういうものを人間が考え出してきました。このように、理念をつくり、それを制度化し、機械をつくったり、交通手段として電車をつくったり、物理的な手段をつくり、増やし、発展させることで、大変な繁栄をつくってきたということです。そして、それらはもちろん、自然を破壊したわけですね。

もし小学生に世界地図を書いてごらんと言えば、おそらくこういう地図を書くと思います。日本がここにあって、ここに中国があって、ここにロシアがあって、アメリカがここだ。だけどこれはほんとの地球の姿でしょうか。宇宙飛行士の話からよく聞きますが、宇宙に出てふっと地球の方を振り返り、はっと気がつくことがある。地球には国境はないのだと。
